白河関跡
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白河関跡とは?
奥州三古関のひとつに数えられる白河関は、奈良時代から平安時代頃に機能していた国境の関で、蝦夷(えみし)の南下や人、物資の往来を取り締まる機能を果たしていたと考えられています。
その後、律令制の衰退とともにその機能を失いましたが、『歌枕』(和歌の名所)として文学の世界で都人の憧れの地となり、能因や西行、松尾芭蕉など時代を代表する歌人・俳人たちが多くの歌を残しており、現在も風流人の想いを描く地として愛されています。
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白河と松尾芭蕉
俳人・松尾芭蕉は、白河の関を越える旅に思いを馳せました。元禄2年(1689)、5月下旬(今の暦で6月上旬)に白河の地にたどり着いた芭蕉は「白河の関にかかりて旅ごころ定まりぬ」と、みちのく路の第一歩を踏み出したことについて感動を込めて記しています。
また、芭蕉の供をした曽良の句に「卯の花を かざしに関の 晴れ着かな」とあり、この時期に白河で咲いていた卯の花を詠み込んだと考えられています。
それから約300年の時を経た今でも、可憐な卯の花が咲き誇ります。
白河神社
下野と陸奥の国境の関があった白河関跡を境内とし、関の明神、二所関明神とも呼ばれ、古墳時代の315年、白河国造・鹽伊乃自直命(しほいのこじのあたいのみこと)を祀ったのが始まりだと言われています。
治承4年(1180)、源義経が兄・頼朝の挙兵を知り鎌倉に向かう道中に詣で、境内の松に矢を立て勝利を祈願したと伝わり、祈願をした「矢立の松」が、小さな根元のみの姿となって残っています。 元和元年(1615)には伊達政宗が社殿を改築奉納したと言われ、本殿の棟紋に九曜星、縦三引きの紋が刻まれています。
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古関蹟碑
白河藩主・松平定信が、寛政12年(1800)に、この場所が白河関跡に間違いないとし、建立した碑が残っています。
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古歌碑
平兼盛、能因法師、梶原景季が
白河関を詠んだ歌三首を刻んだ歌碑です。
便りあらば いかで都へ 告げやらむ
今日白河の 関は越えぬと (平兼盛)
都をば 霞とともに 立ちしかど
秋風ぞ吹く 白河の関 (能因法師)
秋風に 草木の露を はらわせて
君が越ゆれば 関守もなし (梶原景季)
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白河関の森公園
白河関跡に隣接した、木と土のぬくもりがいっぱいの公園です。
白河地方の直家造りの茅葺き民家をそのまま移築した「ふるさとの家」や、自然環境を活用した施設のほか、子ども向けの遊具が設置され、週末には親子連れで賑わいます。