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白河に残る

キャラ 源義経伝説

 白河は、奥州平泉と京の都を結ぶ東山道の街道沿い、奥州の入口に位置する。
 義経は、平泉の商人金売吉次に案内され藤原秀衡が治める平泉へ向う途中この地を訪れ、 また、兄源頼朝が平家追討に立ち上がった事を知り平泉からこの地を通り頼朝のもとへ駆け上っていった。
 この白河には、義経にまつわる様々な伝説が今でも語り継がれている。

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白河市内地図


白河の関周辺コース
金売吉次三兄弟の墓  (白坂皮篭)
 三基の石塔は、中央が吉次、左が吉内、右が吉六の、いわゆる「金売吉次三兄弟の墓」と伝えられている。
 金売吉次は、奥州平泉の黄金商人で、義経を京から奥州平泉に案内した人物として知られている。承安年間(1171〜1175)砂金を 交易して、奥州平泉と京とを往来する途中、ここで盗賊に襲われ殺害され、里人がそれを哀れみこの地に葬り供養したと伝えられている。
 また、後に義経がここに立ち寄り、吉次兄弟の霊を弔い、その霊を近くの八幡宮に合祀したと伝えられている。
金売吉次三兄弟の墓
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庄司戻しの桜  (白河の関手前 表郷字中野)
庄司戻しの桜  義経が平泉から平家追討に向かう事を知り、大鳥城主(福島市飯坂)佐藤元(基)治は、息子の継信・忠信の兄弟を従わせ、 自身もこの地まで来て見送った。別れ際に「お前たちが忠義を尽くしたならこの桜の杖が根付くであろう」と言い、 携えていた一本の桜の杖をこの地に突き立てた。後に、兄弟は、平家討伐に武功を挙げ、敵味方にその剛勇を謳われるようになった。
 継信は、平家との四国屋島の戦で、敵将平能登守教経が義経に向けて射った弓矢を身を呈してかばい討死した。 義経の生命を救った継信の死は屋島の合戦を源氏方の勝利に導いた。
 平家討伐後、義経は、大功がありながら追われる身となり、武蔵坊弁慶や忠信等と共に吉野山に身を潜めることとなった。 忠信は、義経を脱出させるため、義経の鎧を身につけ鎌倉からの追っ手を打ち払い主君主従を無事脱出させた。 その後、自分が義経であるように振舞い京の義経の館に落ちのびたが、鎌倉の兵に襲われ、その目前で腹をかき切り壮烈な最後をとげた。
この主君に対する忠義のため、桜は根付き見事な花を咲かせたと伝えられている。
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下馬の碑  (関辺関山)
 関山満願寺は、義経等が訪れ戦勝祈願し、神馬を奉納したと伝えられている寺。
 この寺は、天平勝宝年間(749〜757)に聖武天皇が、光明皇后の追善と万民のために1寸6分の聖観音を安置した聖武天皇勅願の寺 といわれ、行基菩薩の開基と伝わる。
 また、この山の中腹にある下馬の碑は、弁慶が書いたものと伝えられている。
下馬の碑
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矢立の松  (白河の関跡)
矢立の松  義経は、治承4年(1180)兄頼朝の挙兵を知り奥州平泉から鎌倉に向う途中、この地に立ち寄り、 これから始まる戦の戦勝を占うため神社の前にあった松に弓矢を射立てたと伝えられている。
 現在はその根株だけが残っている。
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旗立の桜  (白河の関跡)
 義経が平泉から平家追討に向かう途中、この地に立ち寄り、神社に戦勝祈願をした際、 源氏の旗をこの桜の木に立てかけたと伝えられている。
 この地の地名「旗宿」の名はこの事に由来するといわれる。
旗立の桜
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白河駅周辺コース
大網常瑞寺  (大工町)
大網常瑞寺  佐藤継信・忠信兄弟の母が、子を慕い故郷を発ち、北平山(泉崎村)の辺りに来たとき、二人共討死したとの知らせが届いた。悲しみに暮れた母は、この地に草庵を建て、兄弟の菩提を弔ったと伝えられている。
 その後、草庵には、浄土真宗の開祖親鸞の孫如信が住み、以来、念佛道場として継承してきた。寛永年間には、白河城主丹羽長重の命により、城下大工町に移された。
 この寺には、佐藤兄弟の菩提を弔った佐藤家伝来の阿弥陀如来立像が伝えられている。
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束前町  (束前町)
 文治5年(1189)義経は、奥州平泉の藤原泰衡の軍に襲われた。この時、武蔵坊弁慶らは、 主君をかばって壮烈な討ち死をし、義経は自害し果てた。
 この日、配下の常陸坊海尊らは、近くの山寺に参詣に出かけていた。出先きでこの凶変を知った彼らは、そのまま行方をくらました。
 常陸坊海尊は、白河に逃れ名を束善と改名し、束善寺という寺の住職となった。 この地の町名「束前町」は、この事に由来すると伝えられている。
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]姫(えなひめ)神社  (向寺)
]姫(えなひめ)神社  義経は、兵法を学ぶため、平泉から京にいる陰陽師・兵法家・鬼一法眼に身許を偽って会い、 鬼一の娘皆鶴姫に近づき、その手引きによって秘伝の書を手に入れ習読し、奥州へ帰った。
 その後、義経は平家軍を滅ぼすが、追われの身となり平泉に逃亡した。皆鶴は、義経を慕って奥州に向かう際、 この地で病に倒れ命を落としたと伝えられている。
 里人たちは、姫の死を悼んで社に祀り、皆鶴の懐にあった梅の実をそばに植えた。梅は成長して「八房の梅」となった。 現在は、その跡に若木が植えられている。
 また、社の傍らには姫が着衣を濯いで枝に掛けた「衣掛の楓」がある。皆鶴の泪が注がれるためか春や秋に、 晴天の時でもこの樹の辺りだけは、なぜか時雨が降ることから「時雨の楓」ともいわれている。現在は、根株を残すのみとなっている。
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