愛


 天地人ゆかりの地

 慶長5年(1600)9月15日、徳川家康と石田三成が雌雄を決した
天下分け目の『 関ヶ原の合戦 』。

 その直前、家康による上杉征伐(会津征伐)の際に、上杉景勝の
重臣・ 直江兼続によって、ある合戦が計画されていました。

 それは、“幻の白河決戦”ともいえる、奥州の関門・白河口における
徳川軍せん滅作戦でした。
 

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白河市内地図



白河小峰城 (白河市郭内)

白河小峰城

奥州関門の名城と謳われた白河小峰城

 14世紀中頃、白河地方を治める結城親朝が小峰ヶ岡に城を構えたと伝えられ、戦国時代には結城氏の本拠になったと考えられています。
 天正18年(1590)、豊臣秀吉の奥州仕置により、12代結城義親が改易されると、白河領は会津領の一部となり、蒲生氏・上杉氏の支配下に置かれました。
 徳川家康による上杉征伐の際には、上杉方の最前線防衛拠点として重要視されたと考えられています。
 現在に残る縄張りや城下町の町割は江戸時代初期に丹羽長重によって整備されたものです。
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革籠原防塁跡 (白河市白坂石阿弥陀)

革籠原防塁跡

残存する上杉軍の防塁跡

 智将・直江兼続が徳川軍を迎え撃つべく主戦場に選んだのは、白河の南方に広がる革籠原でした。
 兼続の策は、革籠原に防塁(一説には数kmにおよぶ)を築き、そこへ徳川軍を誘い込み、両翼より挟撃するというものでした。
 しかし、石田三成率いる西軍の挙兵により、家康は西上して関ヶ原の合戦に挑んだため、革籠原での合戦が実現することはありませんでした。。
 市内の石阿弥陀には、約400年の時を経た今でも、上杉軍の防塁跡と思われる遺構の一部が残されています。
 ※この土塁跡は「鍛治屋敷」と記された中世の館跡であるとする説もあります。
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南湖 (白河市南湖)

南湖

四季折々の風景を讃える南湖

 現在の南湖は、江戸時代の享和元年(1801)、白河藩主・松平定信が造営したものです。
 上杉領時代の頃、この辺り一帯は低湿地帯が広がっていたといわれ、兼続の策はこの湿地帯に徳川軍を引き込み、 ぬかるみで身動きが取れなくなったところを攻撃するものだったとも考えられています。
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金売吉次兄弟の墓 (白河市白坂皮籠)

金売吉次兄弟の墓

中央が吉次、左が吉内、右が吉六の墓石

 金売吉次は平安時代の奥州平泉の商人で、幼少の源義経を京から連れ出し、奥州藤原氏のもとに送り届けた人物と伝えられています。
 吉次兄弟が砂金を交易して奥州と京を往来する途中、盗賊に襲われて殺害され、それを哀れんだ里人がこの地に供養したと伝えられています。
 賊は吉次の所持していた皮籠をひらき、財宝を分けて立ち去ったことから、皮籠という地名が付いたといわれています。
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関山・満願寺 (白河市関辺関山)

関山・満願寺

うつくしま百名山のひとつ・霊峰『関山』

 徳川軍との合戦にあたり、関山を前線として関東をうかがっていいた上杉軍でしたが、 慶長5年(1600)9月14日、徳川方である那須衆のひとつ・伊王野軍の夜襲を受け、一時関山を奪い取られてしまいます。
 翌日には奪還すべく上杉軍が押し寄せ、関山を舞台とした攻防戦が展開されました。
 関山の合戦における兵力は、上杉軍が500〜600人、伊王野軍が約200人と推測されています。
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