愛


 年表

 “天・地・人” 直江兼続が駆け抜けた激動の時代を紹介します。

            (※赤文字は白河での出来事)
 

 永禄3年   樋口与六(のちの直江兼続)、坂戸城(新潟県南魚沼市)の城主・長尾政景の家臣
 (1560)  ・樋口惣右衛門兼豊の嫡男として誕生。
 永禄4年   【第四次川中島合戦】 上杉謙信、武田信玄の啄木鳥戦法を見抜き、武田本陣を  (1561)  急襲。武田の軍師・山本勘助らが討死。
 永禄7年   長尾政景、領内で船遊びの最中に溺死。長尾家は喜平次顕景(のちの上杉景勝)  (1564)  が継承。のちに顕景は謙信の養子となる。
        この頃、兼続が景勝の小姓として近侍したとされる。
 天正元年   織田信長、将軍・足利義昭を京から追放し、室町幕府を亡ぼす。  (1573)
 天正4年   謙信、義昭らと同盟を結び、信長と断交。  (1576)
 天正5年   【手取川の戦い】 謙信、七尾城(石川県七尾市)攻略後、柴田勝家を大将とする  (1577)  織田軍と激突し、大勝利を挙げる。
 天正6年   謙信、春日山城(新潟県上越市)にて急死。養子景勝と景虎(北条氏康の七男)の  (1578)  間で、上杉家を二分する家督相続争いが勃発【御館の乱】。
        景勝、宿敵である武田勝頼と和睦して越甲同盟を結び、勝頼の妹・菊姫を娶る。
 天正7年   窮地に陥った景虎が自害し、乱が収束へと向かう。しかし、内紛による上杉家  (1579)  の衰退は著しく、領土の大半を失う結果となった。
 天正9年   御館の乱鎮圧の恩賞を巡る争いで、重臣・直江信綱が殺害される。景勝の命に  (1581)  より、兼続が信綱の元妻・お船の方に婿入りし、跡取りのない直江家を継いで         越後与板城主となる。以後、兼続は上杉家の執政として内政・外交の両面にお         いて重責を担う。
 天正10年  織田軍の侵攻により武田家が滅亡。上杉家も織田軍の進撃を受け、存亡の危機  (1582)  に立たされるが、本能寺の変における信長の横死により窮地を脱する。
 天正14年  景勝、兼続を伴い上洛。関白・豊臣秀吉に謁見して臣従の意を表す。  (1586)
 天正18年  秀吉、小田原(後北条氏)征伐及び奥州仕置を成し遂げ、天下を統一。  (1590)         白河結城氏、小田原征伐に参陣しなかったため、所領を没収され改易。以後、         白河領は、寛永4年(1627)の白河藩成立まで会津領の一部となる。
 慶長3年   景勝、秀吉の命により会津120万石に加増移封。兼続、米沢6万石を領す。  (1598)           秀吉死去。幼少の秀頼が後継者となり、徳川家康、上杉景勝ら五大老及び石田         三成ら五奉行が補佐する体制を布くが、家康は無断で他大名と縁組するなど、         豊臣政権下で専横な態度を見せ始める。
 慶長4年   家康と互角の勢力を誇った大老・前田利家が死去。  (1599)           三成、対立する福島正則、加藤清正らに伏見屋敷を包囲される。家康の仲裁に         より鎮まるが、奉行職の解任及び佐和山城(滋賀県彦根市)での蟄居を命じられ         る。
 慶長5年   景勝、神指原(福島県会津若松市)に新城の建築を命じるなど、軍備の増強を進  (1600)  める。
        家康、この動きを豊臣家への叛心であるとし、景勝に上洛して陳謝するよう詰         問状を送る。しかし、兼続の返書『直江状』に激怒し、上杉征伐を決意。         兼続、要衝の地である白河において、徳川軍を迎え撃つ作戦を献策。白河小峰         城を拠点に南方の革籠原を決戦場と定めるものだったと伝わる。
        家康、約7万といわれる軍勢を率いて小山(栃木県)まで進軍したところで、         三成ら西軍(総大将・毛利輝元)挙兵の報を聞いたため、小山評定(会議)を開き、         東軍(総大将・徳川家康)を率いて西へ引き返す。
        景勝、徳川軍撤退の好機を得るが、『義』を重んじ追撃せず。
        兼続、米沢に戻り、徳川方の最上義光を攻める。
 〃 9月15日 【関ヶ原の合戦】 西軍、兵力・布陣ともに東軍の優位に立つも、小早川秀秋ら         の裏切りなどで戦況が悪化し、わずか半日で惨敗。石田三成ら捕らえられ処刑。
        兼続、最上軍の長谷堂城(山形県山形市)攻略中に西軍敗戦を知り、米沢への         撤退を決断。しんがりを務め、最上軍の激しい追撃を受けながらも無事帰還。
 慶長6年   景勝、家康への降伏を決意し、兼続と共に上洛、家康に謝罪し、上杉家の存続  (1601)  を許されるが、会津120万石から米沢30万石に減封される。
 慶長8年   家康、征夷大将軍となり、江戸幕府を開く。  (1603)
 慶長19年  【大坂冬の陣】 家康、方広寺鐘銘事件を機に豊臣秀頼の籠もる大坂城(大阪府  (1614)  大阪市)を攻める。景勝・兼続、徳川方として参陣。真田幸村らが奮戦するが、         豊臣方に不利な条件で和議が成立。
 元和元年   【大坂夏の陣】 豊臣方、惣堀と内堀を埋められた大坂城を出て、大規模な野戦  (1615)  を展開するが、激戦の末に大坂城は炎上。秀頼、淀君は自害し、豊臣家は滅亡。
        兼続、嫡男平八景明が病死したため後継者を失う。
 元和2年   徳川家康死去(享年75歳)。  (1616)
 元和5年   直江兼続死去(享年60歳)。後継者のなかった直江家は断絶。  (1619)
 元和9年   上杉景勝死去(享年69歳)。  (1623)
 寛永4年   丹羽長重、棚倉藩より10万石余で白河に入封し、白河藩が成立。  (1627)  幕府の命を受け、同6年から白河小峰城の大修築に着手し、3年の歳月をかけ         て近世城郭の城を完成させた。